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出生
1930

 武田昭彦は日本の豊橋市で生まれます。彼の幼少期は寺院や神社の精神性に包まれ、これらが後の彼の芸術的感受性に深く影響を与えることになります。

 それは、内面的探求と育まれた世界とのつながりの重要性を反映しています。

学歴
1948

 東京芸術大学(GEIDAI)に入学の為、東京に拠点を移し、木工、ガラス、金属、織物、油彩画、彫刻、陶芸等の講義を受けます。

 これらは、訓練、技術、創造性に特徴付けられた総合的な芸術教育でした。

コンペティション
1951

 彼はトヨタ自動車でデザイナーとして採用されます。その傍、後に彼の妻となる高原幸子と出会う事となった「YMCA」で絵画の教鞭をとります。
 
 1953年からは、写真や金属工芸作品のコンペティションに参加し、彼のガラスと金属を融合させる巧みな技能によって賞賛される事になります。

確立期
1960

 妻の励ましを受けて武田は日本のアート市場に足跡を残す事となる、初めてのアートジュエリーを創ります。
 
 武田は、エナメル技法による金属と着色ガラスのはめ込みのみならず、日本の伝統的な着物に用いる絹や綿の布を仕上げに取り入れて、自らの作品をデザインし構想しデザインし制作します。

国外活動
1967

 彼は名古屋市に「武田デザイン事務所」を設立します。その後、シアトルに本拠を置くアンソニー・エンタープライズ株式会社のデザインコンサルタントとして日本とアメリカを行き来する事になります。
 
この時期に、彼のアートジュエリーの製品はアメリカ市場に足跡を残す事になりました。

喪失感
1976

 早すぎる妻の死から来る苦悩、そしてその後イタリアに移った娘との別離を期に襲った果てしない孤独感が、彼自身を彼の作品と一体化させるきっかけとなりました。

探究
1981

 彼は独自の作品を創造しました。その中には精神的探求と、人間としての経験の美しさと複雑さを表現したいという彼の欲望が映し出されています。
 
 またこの時期には、名古屋芸術大学において金属工芸の特別講義の依頼を受けることになります。

評価
1984

 名古屋市の「ギャラリー八画堂」で日本のトップ10人の金属工芸家とともに銀と銅の数々の作品を展示します。

 その後、1990年代まで「ギャラリー茜」にも数々の作品を展示しました。資生堂とアメリカのティファニーが彼の日本の伝統からインスピレーションを受けた「面」と「ジュエリー」の作品に興味を示しました。

ミニマリズム
1990

 彼は、フォルムの漸進的簡素化へと向かう研究を通じて、石膏彫刻にアプローチします。そしてイタリアでの滞在中にはブロンズと大理石の加工を試み、作品を制作し続けました。

本質
1998

 彼は新しい技術を探求し続け、粘土の加工を試し、複数の素材を組み合わせた混合素材の作品を作り上げました。特に1998年以降は陶器の線刻の手法に打ち込みました。 
 
 彼の芸術家としての旅は、2012年に「折りがみ」での作品を持って幕を閉じる事になりました。

バイオグラフィー

 このバイオグラフィーは、諸々の文書、記憶、写真を通じて再構成されたもので、武田昭彦の生涯と芸術活動の主な足跡を辿っています。

 武田昭彦(1930年9月5日 - 2012年12月27日)は日本の愛知県豊橋市に生を受け、そこで神社や寺院の精神性に浸りながら幼児期を祖母と共に暮らします。一方、両親は名古屋に住んでいました。

 1937年、7歳の時に名古屋に戻り、1948年までそこで過ごしたのち東京に移り、首都で最も名高い芸術大学、東京藝術大学(藝大)に入学します。大学では木工、ガラス、金属、織物の加工技術、油彩画、彫刻、陶芸などの研鑚を積みました。

 21歳で学業を終えた後、彼の芸術的な才能はトヨタ自動車に認められ、名古屋本社の広告デザイナーとして採用されました。同時にYMCAで絵画の教鞭をとり、そこで後に妻となる高原幸子と出会います。

 1953年からは写真や工芸作品のコンクールに参加し、最優秀賞を受賞します。
 彼は、3000年前に発祥したとされる有線エナメル(有線七宝)を取り入れます。ほどよいバランスと数多くの経験から、彼にとっての完璧なエナメルが生まれました。

 1960年代に入り、武田は初めて日本市場に向けてアートジュエリーを創造しました。彼は金属やエナメル技法による着色ガラスのはめ込みばかりでなく、日本の伝統的な着物に使われる綿や絹仕上げも利用しながら作品を構想、設計、制作しました。

 1960年代後半には、名古屋でデザイン事務所「武田デザイン事務所」を設立しました。
その後、日本とアメリカ合衆国を往き来しながらシアトルに本社を置くアンソニー・エンタープライズ社(Anthony Enterprises Ltd.)にデザインコンサルタントとして協力するとともに、自身のジュエリーでアメリカ市場に進出しました。

 1976年、妻の早逝と、その後イタリアに移住した娘との距離から、彼は彼自身の作品と一つになります。これが彼の創造性に最大の表現を与えることとなりました。この時から彼にとっての芸術は、大きな空白を埋めるための不可欠な必要性と変化しました。

 1980年代初頭、50歳の時、名古屋芸術大学から金属工芸の講座を依頼されました。探求を続ける彼は、銀と銅の薄い板から作られた作品や、数々の「面」や「アートジュエリー」の続編を製作しています。

 1984年3月、日本のトップ10人の金属工芸家とともに名古屋の「ギャラリー八画堂」で銀や銅の作品を展示します。その後、「ギャラリー茜」で銀と銅の薄板作品シリーズを展示し、このギャラリーは1990年代まで彼の代弁者となりました。

 さらにこの時期には、日本の資生堂をはじめ、アメリカ合衆国のティファニーも、彼の日本の伝統からインスピレーションを受けた彼の「面」や「ジュエリー」に興味を示しました。

 1990年には、自身の研究と経験の総合である独自の技法で石膏彫刻に取り組みます。マティスやピカソを連想させるそのフォルムは、西洋の芸術に強い関心を示しつつも、自身のルーツと伝統を守っています。

 1990年から1993年にかけて、彼はイタリアを何度も訪れました。娘が住むマントヴァでは、いくつかの石膏作品を制作し、この地域の鋳造所を頼って、自身の彫刻の基礎として大理石、及びブロンズの加工を極めました。

 帰国後、新たな技術と材料を研究し、石膏よりも粘土を好んで用いるようになり、テラコッタや陶器の作品を制作しました。長年の経験と知識によって、彼は材料の加工について完全な理解を得ました。こうして多くの材料の組み合わせを通じて、混合素材作品を制作するようになりました。

 1998年には、武田は陶器線刻の技法を試み、多彩な主題を表現する幅広い作品コレクションンを制作しました。
 この芸術の旅は2012年に「折りがみ」で終わりを迎えます。これは彼のルーツへの回帰であると同時に神道への回帰でもありました。

「赤裸々な自己を見つめる事は誰にでも出来ることではない」

- 武田昭彦